五稜郭(ごりょうかく)の歴史・城主・構造・アクセス

北海道地方
エリア北海道地方東北地方
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近畿地方中国地方
四国地方九州・沖縄地方
所在地神奈川県小田原市旧国名相模
別名小峯城(小峰城)小早川城(小早川館)
城郭構造山城平城平山城
天守の状況現存天守木造復元天守
外観復元天守復興天守
模擬天守残っていない
建てられていない不明
天守の構造複合式層塔型3重4階
築城者大森頼春 
築城年1417年(応永24年)室町時代
廃城年1871年(明治4年)明治時代
指定等日本100名城続日本100名城
国宝国重要文化財
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フランス生まれの稜堡式城郭

幕末に外国に対して開港した箱館(はこだて / 現:函館)は、幕府直轄地となり、箱館奉行が置かれた。その奉行所として築かれたのが五稜郭です。

設計にあたったのは武田斐三郎(たけだいさぶろう)で、伊予大洲藩士で緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に学んだ人物です。

その構造は、それまでの日本式の築城ではなく、16世紀にフランスのヴォーバンによって考案された稜堡(りょうほ)式築城によるものです。
残された設計図からは半月堡も5か所に設置されるようであったのですが、幕府の財政難により1か所しか設けられていません。

こうした稜堡はヨーロッパの場合、都市を守るためにその外郭に築かれたのですが、五稜郭では内部に都市はなく、そこに箱館奉行所が建てられました。

城の構造

稜堡式城郭とは、高い城壁では重火器による攻撃で攻撃目標になるため、塁壁を低くしています。
正面攻撃だけでなく、側面からの射撃を併用する十字砲火を浴びせるため、城郭本隊より長く突き出した稜堡を設けて死角をなくすものでした。
さらに外堡(半月堡)を設けて防御力を増大させているのも特徴です。

合戦の舞台

箱館戦争~戊辰戦争最後の戦い~

新政府軍 VS 旧幕府軍 1868年(明治元年)~1869年(明治2年)

1868年(明治元年)、榎本武揚(えのもとたけあき)が率いる艦隊は江戸湾を脱走し、蝦夷地に向かいました。
当時、五稜郭には新政府の箱館府知事の清水谷公考(しみずだにきんなる)がいましたが、脱走軍を前にし、青森へ退却したため、脱走軍は五稜郭に入城しました。

蝦夷地を占領された新政府は翌年4月に青森港を出港し、乙部に上陸。三方より箱館をめざしました。
5月11日には新政府軍の総攻撃が開始され、15日に弁天台場が、16日に千代ヶ岡陣屋が攻め落とされ、18日には五稜郭も明け渡されました。

五稜郭は、稜堡式築城でしたが、内部に設けられた箱館奉行所の楼閣が新政府軍の艦砲射撃の的となってしまい、射撃角度を合わせられ、郭内に次々と着弾を許してしまいました。

現在の状況

当時のままの状態で残っています。
隣接する五稜郭タワーからは、城とは思えない美しい星型城郭を一望することができます。

アクセス

住所/北海道函館市五稜郭町44
アクセス/JR函館駅からバス

関連サイト

函館・五稜郭タワー|公式ウェブサイト-Goryokaku Tower
https://www.goryokaku-tower.co.jp/

参考文献

  • 「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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