江戸城(えどじょう)の歴史・城主・構造・アクセス

ニッポンノオシーロ
エリア北海道地方東北地方
関東地方中部地方(甲信越)
中部地方(北陸)中部地方(東海)
近畿地方中国地方
四国地方九州・沖縄地方
所在地神奈川県小田原市旧国名相模
別名小峯城(小峰城)小早川城(小早川館)
城郭構造山城平城平山城
天守の状況現存天守木造復元天守
外観復元天守復興天守
模擬天守残っていない
建てられていない不明
天守の構造複合式層塔型3重4階
築城者大森頼春 
築城年1417年(応永24年)室町時代
廃城年1871年(明治4年)明治時代
指定等日本100名城続日本100名城
国宝国重要文化財
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将軍家の威光を示す超巨大縄張

1590年(天正18年)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は関東の後北条氏を攻め滅ぼし天下統一を成し遂げると、後北条氏の旧領を徳川家康(とくがわいえやす)に与えました。
徳川家康(とくがわいえやす)が関東支配の拠点として居城を構えたのは、扇谷上杉家の家臣・太田道灌(おおたどうかん)によって築かれた江戸城でした。
当時の江戸城は、日比谷の入江に面した台地に築かれた貧弱なもので、徳川家康の家臣たちは「いかにも貧相」「城もかたち計にて」と嘆いています。

6か国・240万石の大大名となった徳川家康ですが、この貧弱な江戸城の改修をほとんど行っていません。わずかに2つの曲輪を1つにしたにすぎないのです。それは豊臣秀吉の城造りに対する否定的な要素が混じっているとも考えられます。

ところが1603年(慶長8年)の将軍宣下とともに、江戸城は将軍の居城としての大修理が開始されます。
その象徴が1607年(慶長12年)の天守の造営です。
ここにも豊臣秀吉の政権中には意図的に天守を築かなかったことがうかがえます。

2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)は、徳川家康の天守を取り壊し、新たに天守を造営し、3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)も天守を築くことになります。

江戸時代の初期は、将軍の代替わりごとに天守が築かれていたのです。

みどころ

  • 現在の皇居であり、江戸城の中心部であった天守閣・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は、皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっています。
  • 天守台は前田家の普請によって再建されました。
  • 江戸城の石垣の石材は、伊豆から切り出されたものです。
  • 田安門の門脇には御三家の田安家の屋敷がありました。

アクセス

住所/東京都千代田区千代田
アクセス/JR東日本・JR東海・東京メトロ東京駅から徒歩約5分
     東京メトロ・都営地下鉄大手町駅から徒歩約5分

関連サイト

皇居東御苑-宮内庁
https://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/higashigyoen.html

環境省_皇居外苑
http://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/index.html

【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda
https://visit-chiyoda.tokyo/

参考文献

  • 「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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