別名 | 鶴ヶ城 若松城 黒川城 |
地方 | 東北地方 |
所在地 | 福島県会津若松市 |
旧国名 | 会津 |
天守 | 外観復元天守 |
築城時代 | 戦国時代 |
築城年 | 1592年 (文禄元年) |
築城者 | 蒲生氏郷 |
城タイプ | 平城 |
備考 | 日本100名城 |
戊辰戦争で新政府軍の猛攻の前に耐えた難攻不落の名城
1384年(南朝:元中元年・北朝:至徳元年)に蘆名氏7代当主の蘆名直盛(あしななおもり)が造った館がはじまりとされています。
代々蘆名氏の城でありましたが、伊達政宗(だてまさむね)の侵攻により蘆名氏は滅び、黒川城を手にしますが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)により召し上げられ、蒲生氏郷(がもううじさと)が入城することになります。
1592年(文禄元年)より近世城郭に改造し、城下町を整備し、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行いました。1593年(文禄2年)には望楼型7重の天守が竣工し、鶴ヶ城(会津若松城の別称)と名が改められました。
梯郭式の平山城で、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていました。城下町の南端に位置し、会津藩の政庁として会津の政治の中心で、藩主の会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にありました。
幕末には戊辰戦争の激戦地となり、天守を含む多くの建造物の傷みは激しかったが修復は行われず、しばらく放置された後、明治時代に解体されました。
天守は、1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建され、内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されています。
合戦の舞台
1643年(寛永20年)に保科正之(ほしなまさゆき)が入城して以後、保科松平家の居城となりました。幕末に藩主・保科容保(ほしなかたもり)が京都守護職を務めたことにより、会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となりました。
1868年(慶応4年)8月21日、新政府軍は母成峠を突破し、一気に会津に攻め入ります。新政府軍の動きは早く、会津藩によって破壊中の要衛十六橋も突破し、城下へと迫りました。一方、会津藩では戦闘能力のある武家の男子をすべて城内に集めていました。
23日になると新政府軍は郭内に侵入し、北出丸で銃撃戦におよんでいます。新政府軍は兵員不足により、長大な外郭線を包囲することができなかったため、藩内各地より引き揚げてきた藩兵は城内に入城することができたため、籠城戦となっていきます。
籠城する会津若松城に対し、新政府軍は城下南東から15門の大砲で激しい砲撃を加え、9月14日には総攻撃を開始します。ついに9月21日には降伏の願書が差し出され、22日に北大手に降参と書かれた白旗が掲げられ、会津若松城の攻防戦は終わりを告げます。
この戦いに関わった白虎隊は本来は予備兵力でした。装備していた火器は旧式銃のみで、新政府軍の新型銃器に対して著しく劣っていました。要衛十六橋を突破されてからは、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍しました。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、白虎隊は各防衛拠点へと投入されたのです。
しかし、劣勢は変わることなく、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も撤退を余儀なくされました。二番隊は戸ノ口原で決定的な打撃を受け、8月23日に負傷者を抱えながら残りの7人が郊外の飯盛山へと落ち延びました。
この時、深刻な負傷によりこれ以上は戦えないと悟り、負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したといわれています。
みどころ
- 2010年(平成22年)から、黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が行われ、2011年(平成23年)3月に竣工しました。
- 石垣を年代的に見ると、一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたものです。野面積みという石の積み方で、自然石を組み合わせて積み上げます。傾斜が緩やかで、裾野が広いのが特徴です。
- 本丸内の麟閣という茶室は千利休の子である少庵が建てたと伝わっています。現在の建物は戊辰戦争後、市内に移築されていたものを、元の場所に移築・復元したものです。
アクセス
住所 |
福島県会津若松市追手町1-1 |
アクセス |
・JR会津若松駅からバスで約10分 |
関連・参考
<関連サイト>鶴ヶ城天守閣(国指定史跡・若松城跡)|観光・体験|会津若松の公式観光情報サイト【会津若松観光ナビ】
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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