別名 | 尼ヶ淵城 |
地方 | 中部(甲信越)地方 |
所在地 | 長野県上田市 |
旧国名 | 信濃 |
天守 | 建てられていない |
築城時代 | 戦国時代 |
築城年 | 1583年 (天正11年) |
築城者 | 真田昌幸 |
城タイプ | 平城 |
備考 | 日本100名城 |
昌幸の戦術に翻弄された家康、秀忠親子
上田城は徳川軍を2度にわたって撃退した城として、真田昌幸(さなだまさゆき)の戦上手ぶりとともに戦国ファンによく知られています。
1585年(天正1年)、武田氏旧領について徳川氏と北条氏との間に分割協定がなされ、真田氏は上野沼田領を北条氏へ引き渡すよう家 康から命じられます。真田昌幸(さなだまさゆき)がこれに承服しなかったため、徳川家康(とくがわいえやす)軍は上田城攻めを開始します。こうして第1次上田合戦が始まりました。
「天守もなき小城」と家康軍は一気に二の丸へ攻め寄せますが、逆に城内各所より鉄砲の一斉射撃を浴び、さらに城下に設けられた千鳥掛と呼ばれる柵に妨害され、退路も断たれてしまうという大敗を喫してしまいました。
徳川家の天敵、秀忠進軍を阻止
その15年後、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦では、東山道を西上する徳川秀忠(とくがわひでただ)軍が6日間もの間、上田城で進軍を阻止されてしまいます。その結果、徳川秀忠(とくがわひでただ)はついに関ヶ原合 戦に間に合わず、徳川家康(とくがわいえやす)の逆鱗に触れてしまいます。これが第2次上田合戦です。
上田城は方形の単純な構造ですが、南面は千曲川の支流である尼ヶ淵と呼ばれる深い淵に面し、断崖絶壁となっていました。近世城郭に改修されてはいますが、現在でもこの南面の絶壁を見ることができます。
かつては、七棟あった本丸の櫓のうち現存するのは西櫓、南櫓、北櫓の三棟です。
みどころ
- 本丸北東角の土塁は内側にへこませています。これは隅欠きといわれ、鬼門除けになっています。
- 南櫓と北櫓は、明治以降移築され、復元された櫓門でつなげられ、見学が可能です。
- 西櫓は、仙石氏によって創建された場所に当時とほぼ同じ建物のままです。1、2階とも突き上げ窓で、石落はありません。
アクセス
住所 |
長野県上田市二の丸 |
アクセス |
・JR長野新幹線 上田駅から徒歩約10分。 |
関連・参考
<関連サイト>上田城跡公園 _ 信州上田観光協会
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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