別名 | - |
地方 | 中部(北陸)地方 |
所在地 | 福井県福井市 |
旧国名 | 越前 |
天守 | 建てられていない |
築城時代 | 南北朝時代 |
築城年 | 15世紀前半? |
築城者 | 朝倉氏 |
城タイプ | 山城 |
備考 | 日本100名城 |
朝倉氏五代の居城
戦国城下町として著名な一乗谷朝倉氏遺跡であるが、その創設は朝倉孝景(あさくらたかかげ)が守護・斯波氏を破って1471年 (文明3年)に築城したことに始まり、以後、越前の首府として朝倉氏五代の居城となりました。
しかし1573年(天正元年)、天下布武を目指す織田信長(おだのぶなが)軍に攻められ灰燼に帰してしまいました。
川沿いに展開する広大な城下町
一乗谷川の流れる狭谷に上城戸と下城戸と呼ばれる巨大な土塁を構え、その内側を城戸ノ内と呼び、居館を中心とした城下町が形成さ れました。特に下城戸では2mを超える巨石を用いた枡形虎口が設けられていました。
居館は山城を背面に控え、前方の三方に水堀と土塁を巡らせた方形館で、主殿、常御殿、会所からなる典型的な守護館の構造を示しています。
なお、現在館跡の正面に建つ唐門は朝倉氏の菩提を弔うために建立された松雲院の正門です。また、館背後の一乗城山には畝状空堀群を100本以上巡らせた巨大な山城が築かれました。
そして、城下町は武家と町人が混在して暮らす戦国時代の典型的な城下町で、現在では武家屋敷が復元整備されており、 戦国時代の城下町の姿を知ることができます。
足利義秋を迎え入れる余裕も
後の室町幕府第15代将軍となる覚慶(かくけい)は興福寺を脱出して還俗し、足利義秋(あしかがよしあき)と名乗るものの京都を追われ、越前・朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとへ亡命します。
このとき一乗谷に用意されたのが御所でありましたが、この屋敷は上城戸の外方に構えられていました。足利義秋(あしかがよしあき) は亡命中に元服して足利義昭(あしかがよしあき)を名乗ります。
ところで朝倉義景(あさくらよしかげ)はすでに将軍連枝の鞍谷御所・足利嗣知(あしかがつぐとも)を一乗谷に抱えており、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛する意思はありませんでした。
そこで足利義昭(あしかがよしあき)は朝倉氏を見限り、織田信長(おだのぶなが)を頼って尾張へ移るのです。
アクセス
住所 |
福井県福井市城戸ノ内町ほか |
アクセス |
・JR越美本線 一乗谷駅 徒歩約30分 ・JR北陸本線 福井駅からバスで「武家屋敷前」下車すぐ |
関連・参考
<関連サイト>福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 朝倉氏の戦国城下町一乗谷の全体像や歴史的価値を楽しみながら学べます
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
コメント