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小谷城(おだにじょう)

小谷城(おだにじょう) ニッポンノオシーロ
別名
地方近畿地方
所在地滋賀県長浜市
旧国名近江
天守残っていない
築城時代戦国時代
築城年1516年
(永正13年)?
築城者浅井亮政
城タイプ山城
備考日本100名城
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強固な山城だった小谷城

小谷城は大嶽、本丸部、清水谷から構成されていました。つまり山上に詰城が2つも設けられていたのです。さらに月所丸、福寿丸、山崎丸などの拠点が小谷山のいたるところに配置されていました。
小谷山では北東部が唯一の尾根続きであったため、この尾根筋を防御する目的で築かれたのが月所丸です。畝状空堀群の存在などから越前朝倉氏によって築かれたものと考えられています。 

小谷城攻めの布石~信長による小谷城孤立化作戦~

1570年(元亀元年)当時の織田信長(おだのぶなが)は大坂本願寺、浅井・朝倉軍などと全方位的な戦闘を展開しており、小谷城攻めに全軍を割くことができませんでした。そこで浅井軍を牽制、監視する目的で、姉川に突出した横山城を江北攻めの本陣とし、豊臣秀吉(とよとみひでよし)を入れ置きました。
1572年(元亀3年)に上洛した織田信長(おだのぶなが)は将軍・足利義昭(あしかがよしあき)らを封じ込めると、本格的に小谷城を攻めるため、姉川を越え、小谷城の眼前にある虎御前山に陣を移します。そして街道を押さえ小谷城と山本山城とを分断し、本格的な小谷城攻略を開始するのです。

姉川合戦後に浅井攻めを本格化

1570年(元亀元年)、越前朝倉氏攻めに出陣した織田信長(おだのぶなが)に対して、織田信長(おだのぶなが)の同盟軍であった浅井長政(あざいながまさ)が突如叛旗をひるがえし、織田信長(おだのぶなが)を背後から挟撃しました。岐阜に戻った織田信長(おだのぶなが)は近江へ侵攻し、姉川合戦に勝利した後、本格的に浅井長政(あざいながまさ)の居城・小谷城の攻略を開始します。
その第一段階が横山城の築城です。小谷城を監視する目的で築城されたもので城番として豊臣秀吉(とよとみひでよし)が入れ置かれました。小谷城では防御を強固なものとするため越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)が大嶽を改修するとともに、月所丸や福寿丸などが築かれました。

秀吉の分断作戦が決定打

1572(元亀3年)7月、織田信長(おだのぶなが)は小谷城と北国脇往還をはさんで西側に位置する虎御前山に本陣となる陣城(付城)を構築し、さらに横山城との間には八相山、宮部に要害を築きました。また、虎御前山と宮部間には小谷城側に水堀と築地を備えた軍道を整備し、いよいよ本格的な攻城戦を開始します。
そして翌1573年(元亀4年)8月には山本山城の阿閉淡路守を調略し、小谷城を孤立させ、まず大嶽を守備していた越前朝倉軍を攻め落とします。22日夜には豊臣秀吉(とよとみひでよし)の部隊が清水谷より京極丸(京極つぶら)に攻め上がり、小丸の浅井久政(あざいひさまさ)と本丸の浅井長政(あざいながまさ)を分断し、ついに落城しました。浅井久政(あざいひさまさ)は小丸で、浅井長政(あざいながまさ)は赤尾屋敷で自害して果てました。

アクセス

住所
滋賀県長浜市湖北町郡上
アクセス
・JR北陸本線「河毛駅」下車、徒歩約40分

関連・参考

<関連サイト>小谷城跡 _ 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!

<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社

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