別名 | 指月城 |
地方 | 中国地方 |
所在地 | 山口県萩市 |
旧国名 | 長門 |
天守 | 残っていない |
築城時代 | 江戸時代 |
築城年 | 1604年 (慶長9年) |
築城者 | 毛利輝元 |
城タイプ | 平山城 |
備考 | 日本100名城 |
未完の城に輝元入城
関ヶ原合戦で西軍に与した毛利輝元(もうりてるもと)は防長2か国に減封され、新たな居城として築かれたのが萩城でした。
築城工事は1604年(慶長9年)に指月山の山頂部から開始され、その年の1月にはまだ未完成でありましたが毛利輝元(もうりてるもと)は萩に移りました。以後、萩城は毛利家14代の居城となりました。
指月山頂に詰丸を構えた毛利氏の居城~籠城施設であった詰丸~
萩城は大きく指月山の山頂部に構えられた詰丸と、山麓に本丸、二の丸、三の丸を配する構造で、戦国時代的な二元構造を呈しています。
本丸南西隅には五重五階の天守が建てられていました。その初重は半間分天守台より張り出し、全面が石落となっていました。この天守は明治まで威容を誇っていましたが、1874年(明治7年)に解体されてしまいました。
二の丸の東西二方は直接日本海に面して石垣が築かれ、内部には満願寺や三摩地院などの寺社が造営されていました。
山頂の詰丸は要害とも呼ばれ、本丸と二の丸の二段からなり、その中央には巨大な貯水槽が設けられており、詰丸が籠城施設であったことを物語っています。
本丸の南西隅部に突出して築かれた天守台の石垣は裾部が大きく広がります。下部では勾配が緩く、上部では急に反り上がります。こうした技法は俗に「扇の勾配」と呼ばれ、実に美しいです。
さらに見た目の美しさだけではなく、安定感のある石垣は重量のある天守を支えるためにも効果的でありました。
参勤交代時の儀式
萩藩では参勤交代で初めて国入りする藩主が天守と要害に登陟する儀式が執り行われていました。
国入りした藩主は、まず天守三階の鐘之段に着座して居並ぶ重臣たちに熨斗を振舞います。
一方、藩主には城代より熨斗、昆布、勝栗が供されています。その後藩主は天守を出て、徒歩で指月山の詰丸に登り、御茶屋で天守と同様の儀式を行います。そして大将櫓と瀬戸崎櫓に上がり遠見をします。
これは詰丸の軍事的機能である陸海監視を藩主自らが確認するものでした。なお、天守はこの儀式 以外に用いられることはありませんでした。
アクセス
住所 |
山口県萩市堀内字旧城1-1 |
アクセス |
・バスで「萩城跡・指月公園入口」下車、徒歩3分 |
関連・参考
<関連サイト>観光スポット|萩市観光協会公式サイト|山口県萩市
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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