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原城(はらじょう)

原城(はらじょう) ニッポンノオシーロ
別名日暮城
地方九州・沖縄地方
所在地長崎県南島原市
旧国名肥前
天守天守台相当の櫓台あり
築城時代戦国時代
築城年1496年
(明応5年)
築城者有馬貴純
城タイプ平山城
備考続日本100名城
世界文化遺産
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史上最大規模の一揆軍

1616年(元和2年)、松倉重政(まつくらしげまさ)が島原に入封し、島原城を築城します。しかし、島原築城の課役やキリシタン弾圧が発端となって、1637年(寛永14年)に島原の乱が勃発。
天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)を総大将とする一揆軍の立て籠もった原城は、戦国時代に島原を所領としていた有馬氏の旧城です。
乱当時は石垣が保たれており、すぐに利用することが可能な状態でした。幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を総大将に鎮圧に向うが、逆に板倉重昌(いたくらしげまさ)は戦死します。このため幕府は松平信綱(まつだいらのぶつな)を派遣し、九州の諸大名にも動員をかけて包囲しました。さらにオランダ軍艦には海上からの砲撃を依頼し、一揆軍は翌1638年(寛永15年)2月27、28日の総攻撃によって壊滅しました。
秋月黒田藩に伝わる「島原の乱図屏風」には高石垣や、激しい戦闘の様子が詳細に描かれています。乱の終結とともに幕府は徹底的に原城 を破壊してしまいました。 

処刑者含め3万の死者

秋月黒田家に伝わる 「島原の乱図屏風」 は乱後200年を記念して製作されたものですが、膨大な史料から考証されており、信憑性は高いものです。
一揆軍の立て籠もった原城は、有馬氏の築城当時の高石垣に囲まれた本丸をそのまま利用しており、そこに板塀を張り巡らせ、井楼組の櫓を構えていたことが実にリアルに描かれています。
注目されるのは本丸内部の一揆軍の住居で、 竪穴式住居が描かれています。これは発掘調査によっても確認されています。
板倉重昌(いたくらしげまさ)の戦死後は、幕府軍は兵糧攻めに作戦を変更します。 約2か月におよぶ籠城で食料は底をつき、身体を動かせない者が続出しました。また、弾薬も不足し、幕府軍総攻撃に際しては鍋釜や石礫を投げるしまつでした。
この総攻撃は合戦というよりも虐殺というべきもので、原城に立て籠もった一揆軍は婦女子にいたるまでことごとく殺されたのです。死体は埋葬されず、城を徹底的に破壊する際に一緒に埋めてしまったことが発掘調査で明らかにされています。

アクセス

住所
長崎県南島原市南有馬町
アクセス
・JR長崎本線「諫早」駅からバスで約95分「口之津港」下車。「口之津港」バス停からバスで約15分「原城前」下車、徒歩約13分

関連・参考

<関連サイト>世界遺産 原城跡|島原半島を知る|雲仙温泉郷

<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社

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