別名 | 千葉城 六実城 隈本城 銀杏城 |
地方 | 九州・沖縄地方 |
所在地 | 熊本県熊本市 |
旧国名 | 肥後 |
天守 | 外観復元天守 |
築城時代 | 戦国時代 |
築城年 | 1469年 (文明元年) |
築城者 | 出田秀信 |
城タイプ | 平山城 |
備考 | 日本100名城 |
加藤清正によって築かれた天下無双の大城郭
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州平定後、肥後は佐々成政(さっさなりまさ)に与えられましたが、国人一揆が勃発、所領を没収されてしまいます。
替わって肥後半国に加藤清正(かとうきよまさ)が入部し、その居城を隈本古城の北東部の茶臼山に選地し、大々的な築城工事を開始しました。しかし朝鮮出兵によって中断、さらには関ヶ原合戦が勃発するなどしたため、1607年(慶長12年)にようやく完成しました。
加藤氏改易後は細川氏の居城となります。
その構造は加藤清正(かとうきよまさ)の縄張による鉄壁の構えで、台地の先端に中枢部を置き、西方の台地続きに大空堀を三重に設けて西出丸、二の丸、三の丸を配置しました。
中枢部は本丸、東竹の丸、飯田丸、数奇屋丸、平左衛門丸からなり、すべて高石垣によって築かれていました。
また、中枢部の各曲輪には五階櫓、三階櫓と呼ばれる巨大な櫓が配され、石垣上には多門櫓が巡らされていました。これによって各郭がそれぞれひとつの独立した城郭として機能していたわけです。
本丸は南北2郭に分かれ、北郭の端部に天守が造営されました。大天守は天守台に突き出した丸太上に初重をのせた五重六階地下一階で、内部には多くの畳敷きの部屋があり、豪華な障壁画が描かれていました。
1877年(明治10年)の西南戦争では西郷隆盛(さいごうたかもり)軍の猛攻にも落城せず、その堅城さを証明しました。
見る者を圧倒する天守と石垣
1877年(明治10年)の西南戦争では、落城は逃れましたが、大天守は焼失しました。大天守は1601年(慶長6年)頃に竣工し、内部には多くの畳敷きの部屋があり、障壁画が描かれていました。1960年(昭和35年)に外観が復元されました。
宇土櫓は、熊本城で大天守、小天守に次ぐ三の天守と称された櫓で、外観は三重ですが、内部は地上5階、地下1階という巨大なものです。外観も四方に破風を配し、最上階は廻縁を設けるなど、天守の姿を呈しています。
昭君之間
2008年(平成20年)、西南戦争で焼失した本丸御殿が復元されました。その本丸御殿のなかに「昭君之間」と呼ばれる一室があります。
床の間の杉戸の内からは床下への抜け道があり、またこの間へ通じる廊下は鶯張となっていました。
このような仕掛けは何のために設けられたのでしょうか。
実は昭君とは将軍の隠語であり、加藤清正(かとうきよまさ)が豊臣 家に万が一のことがあった場合、豊臣秀頼(とよとみひでより)を迎えるために設けた一室であったと伝えられています。
アクセス
住所 |
熊本県熊本市本丸1-1 |
アクセス |
・熊本駅前電停から約17分、「熊本城・市役所前」電停下車、徒歩約10分 ・熊本駅前バス停から約10分、「桜町バスターミナル」下車、約10分 ・熊本駅前から熊本城周遊バスで約30分 |
関連・参考
<関連サイト>【公式】熊本城
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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