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二条城(にじょうじょう)

二条城(にじょうじょう) ニッポンノオシーロ~日本の名城一覧~
別名旧二条離宮
元離宮二条城
地方近畿地方
所在地京都府京都市
旧国名山城
天守残っていない
築城時代戦国時代
築城年1601年
(慶長6年)
築城者徳川家康
城タイプ平城
備考日本100名城
世界文化遺産
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大政奉還の舞台

徳川幕府は当初京都における公儀の城を伏見城としていましたが、1601年(慶長6年)に二条城の築城を開始します。その普請は西国の諸大名が動員される天下普請でありました。さらに1624年(寛永元年)には後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の二条行幸のため、大規模な改修が行われました。この寛永の改修には尾張・紀伊徳川家、彦根藩などの親藩、譜代大名に石垣や堀を普請させました。
徳川家康(とくがわいえやす)、徳川秀忠(とくがわひでただ)、徳川家光(とくがわいえみつ)は将軍宣下の賀儀を二条城で行いますが、それ以後、将軍の上洛は途絶えてしまいます。1867年(慶応3年)に最後の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が二の丸御殿において大政奉還を宣言したことはあまりにも有名です。 

内部も豪華絢爛な京の城

徳川家康(とくがわいえやす)創建時は単郭の構造でありましたが、寛永期の大改修で方形の本丸を方形の二の丸が取り囲む典型的な輪郭式構造となりました。本丸の南西隅には、伏見城より移築された五重の天守がそびえていました。
二の丸に造営された御殿は慶長~寛永期(1596年~1649年)の城郭殿舎としては唯一現存するもので、内部の障壁画は狩野探幽(かのうたんゆう)ら狩野一派が腕を揮ったものです。
二の丸御殿は遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院が雁行して建てられています。現在、屋根は瓦葺となっていますが、創建当初は柿葺でした。遠侍とその玄関にあたる車寄は、ニの丸御殿で最大の規模を誇ります。諸大名の控えの間と、天皇の勅使と対面する部屋などがありました。

後水尾天皇の行幸

1626年(寛永3年)9月6日、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の二条行幸が執り行われました。この5日間のために徳川家光(とくがわいえみつ)は2年前より二条城の改修を行うのですが、「寛永行幸記」に「その修飾金銀珠玉、(略)美を尽くし善を尽くす也」と記される豪華絢爛なものでありました。また、この丸御殿と本丸御殿を天皇や公家が地面に降りることなく移動するため橋廊下が架けられていました。この行幸のために新造された御殿群は行幸終了後に取り壊されたり、御所へ移築され城下より撤去されててしまうのです。

アクセス

住所
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
アクセス
・JR嵯峨野線「二条駅」から徒歩1分
・地下鉄東西線「二条城前駅」すぐ

関連・参考

<関連サイト>二条城 世界遺産・元離宮二条城

<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社

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