記事内に広告が含まれています。

大坂(大阪)城(おおさかじょう)

大坂(大阪)城(おおさかじょう) ニッポンノオシーロ~日本の名城一覧~
別名錦城
金城
地方近畿地方
所在地大阪府大阪市
旧国名摂津
天守復興天守
築城時代戦国時代
築城年1583年
(天正11年)
築城者豊臣秀吉
城タイプ平城
備考日本100名城
スポンサーリンク

灰燼に帰した黄金太閤の巨大城郭

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は1583年(天正1年)、石山本願寺の故地である上町台地の突端に築城を開始しました。この大坂城は日本で最初期の平野部における近世城郭であり、石垣の石材は遠く六甲や生駒山から切り出され、この工事は近世城郭に多大な影響を与えました。築城当初は本丸と二の丸だけでしたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)晩年の1594年(文禄3年)には城下町を囲い込む防御施設である惣構の工事が行われ、鉄壁の巨大城郭が完成しました。
では、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の大坂城はどのような構造だったのでしょうか。大坂の役(冬の陣・夏の陣)で灰燼に帰したため、現在の大阪城の遺構は徳川幕府の再建によるもので、豊臣秀吉(とよとみひでよし)時代の構造は一切残していません。わずかに中井家「本丸図」と大坂の陣図屏風にうかがえるにすぎません。それによると本丸は三段からなり、その北東隅には五重の天守が配されていました。その外壁は黒漆喰とし、上階には仙鶴や虎が金箔で表され、破風の金具も金箔で飾られるという豪華絢爛なものでありました。
本丸の北端には山里丸があり、千利休(せんのりきゅう)の侘び茶思想による茶室が構えられていました。この茶室開きは天守や本丸御殿も未完成の段階で行われており、山里丸が来賓接待の重要な場であったことが分かります。

惣構を突破できない徳川軍~大坂冬の陣 1614年(慶長19年)11月~12月~

1603年(慶長8年)、徳川家康(とくがわいえやす)は征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開きます。大坂の豊臣秀頼(とよとみひでより)には国替え、さらには江戸参府という要求がつきつけられますが、豊臣秀頼(とよとみひでより)はこれらを拒否します。大坂城には豊臣恩顧の大名や牢人が続々と集まり、一触即発の状態となったのです。
1614年(慶長19年)11月、徳川家康(とくがわいえやす)は20万もの軍勢で大坂城を包囲します。この大坂冬の陣を描いた屏風では堀には乱杭が打たれ、鳴子や提灯が張り巡らされた城が描かれています。
また、大坂に入城した真田幸村(さなだゆきむら)は外郭に丸馬出状の真田丸を急造し、ここで徳川軍を撃退しています。結局、冬の陣で徳川軍は惣構の堀を突破することはできず、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の大坂城が難攻不落であることを思いしらされました。このため、12月に講和を結び、徳川軍は大坂城の本丸と内堀を除いて破却、埋め立ててしまったのです。

幸村の勇戦も空しく・・・~大坂夏の陣 1615年(慶長20年)4月~5月~

翌1615年(慶長20年)4月、夏の陣が勃発しますが、裸城同然の大坂城では防戦のしようもありませんでした。徳川家康(とくがわいえやす)の首を狙い突撃した真田幸村(さなだゆきむら)も討ちとられ、城は炎上し、豊臣秀頼(とよとみひでより)、淀殿(よどどの)らは自刃して果てました。「大坂夏の陣図屏風」には逃げ惑う婦女など、戦場の生々しさが描かれています。大坂城はその後江戸幕府によって埋め立てられ、現在では豊臣秀吉(とよとみひでよし)時代の姿をうかがう ことはできません。

家康を翻弄した真田丸 馬出の究極の形態

豊臣秀吉(とよとみひでよし)が心血を注いで築いた大坂城は、当時まちがいなく難攻不落の城でした。そのなかで、南方は惣構の堀が構えられていたとはいえ 台地続きであり、唯一の弱点でありました。
冬の陣を前に大坂城に城した真田幸村(さなだゆきむら)はこの弱点を克服すべく、惣構平野口の前面に真田丸と呼ばれる出丸を急遽構築しました。その形状は長く不明であったが、 熊本大学附属 図書館永青文庫に所蔵されていた真田丸の図面によってようやく明らかになりました。
それによると平野口前面に半月形の曲輪を設け、曲輪周囲には水堀と空堀が巡らされています。これは武田氏が多用した丸馬出そのものです。真田幸村(さなだゆきむら)は武田氏の下で学んだ経験を活かしたのでした。そして、この丸馬出の効果はいかんなく発揮され、徳川軍に多大の被害を与えたのでした。

アクセス

住所
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
アクセス
・JR大阪環状線「森ノ宮」駅・大阪城公園駅から徒歩15分

関連・参考

<関連サイト>大阪城天守閣

<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社

コメント

タイトルとURLをコピーしました