別名 | 躑躅ヶ崎館 |
地方 | 中部(甲信越)地方 |
所在地 | 山梨県甲府市 |
旧国名 | 甲斐 |
天守 | 建てられていない |
築城時代 | 戦国時代 |
築城年 | 1519年 (永正16年) |
築城者 | 武田信虎 |
城タイプ | 平城 |
備考 | 日本100名城 |
甲斐武田氏三代の拠点
武田氏館(現:武田神社)が築かれたのは1519年(永正16年)です。躑躅ヶ崎の地にあったことから「躑躅ヶ崎の館(つつじがさきのやかた)」と呼ばれました。三方を山に囲まれ、相川扇状地の開口部で、南に甲府盆地を一望します。館の完成した翌年には、館の北東2kmに要害山城が築かれました。国を治める館と、館を防衛する山城。典型的な拠点づくりです。
甲斐守護・武田信虎(たけだのぶとら)が家督争いに勝ち、国人を平定し、新たに築いたのが武田氏館(躑躅ヶ崎館・つつじがさきやかた)です。さらに翌年には積翠寺裏の丸山を実地検分して要害山城を築きました。ところで、躑躅ヶ崎とは丘陵の地名による俗称で、本来は(甲斐) 府中が正しい。館は武田信虎(たけだのぶとら)、武田信玄(たけだしんげん)、武田勝頼(たけだかつより)と武田氏三 代にわたる居城となり、甲斐支配の中心となりました。
方形単郭構造から次第に曲輪が拡大
その構造は東西290m、南北200mの方形を呈し ており、周囲には土塁と堀が巡らさ れていた。最盛時にはこの館に付属して西曲輪、味噌曲輪が構えられていましたが、今は西曲輪のみが残されています。さらに現在では館の南側に武田神社の参道がありますが、当時は東側が大手口で、その前面には三日月堀が設けられ馬出が構えられていました。また、館の北西隅には石垣によって築かれた天守台が残っていますが、これは武田氏滅亡後に入城した平岩親吉(ひらいわちかよし)、加藤光泰(かとうみつやす)らによって築かれたものです。
この躑躅ヶ崎館の背後に位置するのが要害山で、その頂上に躑躅ヶ 崎館の詰城が築かれた。登城道は複雑に屈曲を繰り返して防御を強 固なものとしているが、背面は堀切りだけしか設けていません。この要害山城に残る石積みも武田氏以後に修築されたものと考えられています。
アクセス
住所 |
山梨県甲府市古府中町2611 |
アクセス |
・JR中央本線 甲府駅北口より徒歩2.2km、バス約8分 武田神社下車。 |
関連・参考
<関連サイト>甲斐 武田神社
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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