別名 | 末広城 扇城 |
地方 | 中部(東海)地方 |
所在地 | 愛知県新城市 |
旧国名 | 三河 |
天守 | 建てられていない |
築城時代 | 戦国時代 |
築城年 | 1508年 (永正5年) |
築城者 | 菅沼元成 |
城タイプ | 平城 |
備考 | 日本100名城 |
要衝・長篠城を取り囲む武田軍
1574年(天正2年)武田家の家督を継いだ武田勝頼(たけだかつより)は三河、遠江への侵攻を開始します。そして遠江における徳川家康(とくがわいえやす)の最前線である高天神城を攻略します。翌年に徳川家康(とくがわいえやす)は長篠城に奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を入れ置き、城の増改築を行わせました。
武田勝頼(たけだかつより)は同年4月に約1万5千の兵をもって三河へ進出し、21日に長篠城を包囲します。長篠城は宇連川と寒狭川の合流点の段丘上に立地する天然の要害で、本丸といくつかの曲輪からなり、特に平野部側では帯曲輪を壊して堀を三重に構えて防御を強化していました。
家康、信長の巧みな戦術!長篠の戦いで勝頼を粉砕
一方、徳川家康(とくがわいえやす)は長篠救援のため織田信長(おだのぶなが)軍とともに5月17日に野田に着陣し、連吾川右岸に馬防柵を設けて布陣した武田軍は徳川・織田軍の後詰行動を阻止するため長篠包囲部隊を若干残して主力部隊を連吾川に差し向けました。
ところが20日には金森長近(かなもりながちか)や酒井忠次(さかいただつぐ)らの別働隊が長篠城南東の鳶ヶ巣山に陣していた武田軍を急襲します。勝頼は背後を衝かれる危険性から一気に騎馬による主力決戦に臨みましたが、織田信長(おだのぶなが)軍の馬防柵と鉄砲によって壊滅的打撃を被り、信濃へ敗走しました。織田・徳川軍別働隊によって武田軍の包囲部隊も敗れ、長篠城は落城を免れました。なお、長篠城北方の医王寺背後の山頂には武田勝頼(たけだかつより)が本陣とした陣城遺構も残されています。
交通の要衝に位置した長篠城
長篠の地は平地が山間部に変わる境目にあたる重要な場所です。また、豊川沿いに美濃や信濃と結ばれ、宇連川沿いに遠江と結ばれる交通の結節点でもありました。このため、甲斐の武田氏はこの道筋を利用して、遠江や三河に進出してきたのです。いわば武田氏と徳川氏の境目にあたることから、両家による争奪戦が繰り広げられていたのです。
アクセス
住所 |
愛知県新城市長篠字市場22-1 |
アクセス |
・飯田線「長篠城駅」から徒歩8分 |
関連・参考
<関連サイト>国指定史跡長篠城跡の案内:新城市
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
コメント