別名 | 白鷺城 |
地方 | 近畿地方 |
所在地 | 兵庫県姫路市 |
旧国名 | 播磨 |
天守 | 現存天守 |
築城時代 | 南北朝時代 |
築城年 | 1346年 (南朝:正平元年) (北朝:貞和2年) |
築城者 | 赤松貞範 |
城タイプ | 平山城 |
備考 | 日本100名城 世界文化遺産 |
現存する最大規模の城郭建築
豊臣秀吉(とよとみひでよし)は播磨平定後、姫路城を石垣造りの城として築城し、その居城としました。
その後、1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦の戦功によって池田輝政(いけだてるまさ)は52万石を賜って姫路に入城し、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天守を解体して新たな天守を造営しました。城下を取り囲む惣構の堀もこの池田輝政(いけだてるまさ)時代に完成したものです。
池田氏の後、城主はめまぐるしく交替し、1749年(寛延2年)に酒井忠恭(さかいただずみ)が入城するとようやく治まり、以後明治に至るまで酒井氏の居城となりました。
姫路城の縄張は姫山と麓山という並立する小丘陵を利用した平山城です。姫山には天守を配し、複雑な曲輪配置を施しています。一方、鷺山に構えられた西の丸はいたってシンプルな構造を示しています。こうした相違は豊臣秀吉(とよとみひでよし)時代(16世紀後半)と本多忠政(ほんだただまさ)時代(17世紀初頭)という時期差によるものと考えられています。
城郭美の頂点は世界遺産~別名〈白鷺城〉の優美な姿~
白鷺に例えられる華麗な天守群は、五重六階地下一階の大天守と三重の東・乾・西小天守を二重の渡櫓でつなぐ連立式天守でありました。大天守は池田輝政(いけだてるまさ)により1608年(慶長13年)から築造が開始されたもので、後期望楼型といわれる構造です。交互に入り交じる屋根の唐破風と千鳥破風、巨大な出格子窓や竪格子窓は美しいだけではなく、集中砲火を浴びせかけることを想定したものでした。籠城戦を想定して、大天守内部の地階には流し台や厠も設けられていますが、使用されることはありませんでした。
宮本武蔵の妖怪退治
現在、大天守最上階には刑部神社が祀られています。古くより天守に住む刑部姫(おさかべひめ)を祀るもので、城が築かれる以前からこの地で祀られていた地主神でした。
木下家定(きのしたいえさだ)が城主の頃、城内に妖怪が現われ、夜勤の足軽たちがパニックに陥ったことがありました。そこで家定は宮本武蔵(みやもとむさし)に妖怪退治を依頼します。宮本武蔵(みやもとむさし)が天守に登るとさまざまな異変がおこりますが、ひるむことなくついに最上階に至りました。
そこへ美しい刑部姫(おさかべひめ)が現われ、妖怪が恐れをなして退散した礼をのべ、郷義弘の名刀を授けたと伝えられています。
アクセス
住所 |
兵庫県姫路市本町68 |
アクセス |
・JR神戸線「姫路駅」から徒歩15分またはバス「姫路城大手門前」下車 |
関連・参考
<関連サイト>姫路城公式サイト:トップページ
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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