別名 | 高梁城 |
地方 | 中国地方 |
所在地 | 岡山県高梁市 |
旧国名 | 備中 |
天守 | 現存天守 |
築城時代 | 鎌倉時代 |
築城年 | 1240年 (仁治元年) |
築城者 | 秋庭三郎重信 |
城タイプ | 山城 |
備考 | 日本100名城 |
小堀遠州の大改修
松山城の歴史が明らかとなるのは南北朝時代で、備後三好氏の一族・高橋宗康(たかはしむねやす)が大松山に入城することに始まります。その後、秋庭氏6代在城の後、三村氏が城主となりますが、1574年(天正2年)から翌年にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村氏が松山城をめぐって激戦を展開する備中兵乱の舞台となりました。関ヶ原合戦の後、松山城には、西国目付として備中代官が置かれ、小堀正次(こぼりまさつぐ)、小堀政一(こほりまさかず・小堀遠州(こぼりえんしゅう))が赴任し、荒廃した城を大改修して近世城郭としました。その後城主は頻繁に替わり、最終的には板倉氏となり明治を迎えました。
山城に残された唯一の天守~江戸建造の天守が今も残る~
高梁河畔にそびえる臥牛山の山頂に築かれた松山城は、大きく大松山城と小松山城からなり、近世松山城は小松山に構えられるとともに、山麓には御根小屋と呼ばれる藩主の居館が設けられました。
天守は残存12天守の一つで、二重二階の小規模なもので、1681年(天和元年)に水谷勝宗(みずのやかつむね)が大改修を施した段階のものと考えられます。
一階内部には、他の天守では類例を見ない囲炉裏が設けられています。なお、大松山には戦国時代の城郭遺構とともに近世松山城の巨大な貯水池が残されています。
装束の間と御社壇
天守の北背面には装束の間と呼ばれる小室が天守台石垣より約6尺高い石垣上に設けられています。
籠城の際に城主の御座所となったとも、自害の場になったともいわれています。さらに二階には舞良戸で仕切られた一室があり、その中には一段高く唐戸で区切られた御社壇と呼ばれる神棚が設けられ、三振りの宝剣が収められていました。
また築城の際、摩利支天(まりしてん)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)など9柱の神々を勧請しています。このように天守は城郭を守護する宗教的施設としても認識されていました。
アクセス
住所 |
岡山県高梁市内山下1 |
アクセス |
・JR伯備線備中高梁駅前観光案内所より『観光乗合タクシー』を運行(約15分) |
関連・参考
<関連サイト>備中松山城 – 高梁観光情報|備中たかはし
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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