別名 | 備中高松城 |
地方 | 中国地方 |
所在地 | 岡山県岡山市 |
旧国名 | 備中 |
天守 | 建てられていない |
築城時代 | 不明 |
築城年 | 不明 |
築城者 | 石川氏 |
城タイプ | 平城 |
備考 | 続日本100名城 |
怒濤の秀吉軍が高松城を囲む
織田信長(おだのぶなが)の中国攻略軍として、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は1580年(天正8年)に播磨三木城に別所長治(べっしょながはる)を討って平定すると、姫路城を拠点として但馬、因幡、伯耆攻略を開始します。
翌1581年(天正9年)に因幡鳥取城の吉川経家(きっかわつねいえ)を渇え殺しで攻め落とすと、矛先を山陽道へ向けました。備前の宇喜多直家(うきたなおいえ)は織田軍に降り、備中において毛利軍と直接対決することとなりました。
1582年(天正10年)、毛利軍は高松城などの境目七城を修築して豊臣秀吉(とよとみひでよし)軍に備えたましたが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は3万余の大軍をもって宮路山城、冠山城などを攻略して、清水宗治(しみずむねはる)の立て籠もる高松城を包囲します。
地の利を逆に利用した空前の奇策~約10日間の水攻め~
高松城は低湿地に築かれており、豊臣秀吉(とよとみひでよし)軍は周囲の沼に阻まれて攻めあぐねていました。5月7日、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は太閤ヶ山(石井山)に本陣を移し、高松城周辺の山々に陣城を構えて包囲網を強固なものとしました。さらに、足守川を塞き止める堤防を築き、堤防内の高松城へ水が流れ込むようにします。この堤防は長さ3kmにおよび、折からの梅雨でたちまち城は水没してしまいました。
6月3日、本能寺の変の知らせが届くと豊臣秀吉(とよとみひでよし)は毛利軍と講和し、翌4日には高松城主・清水宗治(しみずむねはる)らが切腹して豊臣秀吉(とよとみひでよし)は撤兵しました。
成功した秀吉の水攻め
高松城を当初、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は調略によって落とすつもりでいましたが、城将・清水宗治(しみずむねはる)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の誘いに乗ることはありませんでした。 そこで豊臣秀吉(とよとみひでよし)の定法である包囲戦によっての城攻めを開始しました。 季節はちょうど梅雨時であり、堤防を築いて足守川の水を流し込み高松城を水没させる作戦を実行したのです。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)の思惑は見事に的中し、降りしきる雨によって数日で高松城は巨大な人造湖に浮かぶ小島と化してしまいました。毛利の援軍もすぐさま駆けつけますが豊臣秀吉(とよとみひでよし)軍の包囲網は厚く、近づくことすらできなかったのです。1か月におよぶ籠城戦の結果、兵糧も尽きたため、清水宗治(しみずむねはる)は降伏勧告を受け入れて切復し、城兵の命を救ったのでした。
アクセス
住所 |
岡山県岡山市北区高松558-2 |
アクセス |
・JR備中高松駅から徒歩約10分 |
関連・参考
<関連サイト>備中高松城址 _ 観光スポット _ 【公式】岡山市の観光情報サイト OKAYAMA KANKO .net
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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