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広島城(ひろしまじょう)

広島城(ひろしまじょう) ニッポンノオシーロ~日本の名城一覧~
別名鯉城
在間城
当麻城
地方中国地方
所在地広島県広島市
旧国名安芸
天守外観復元天守
築城時代戦国時代
築城年1589年
(天正17年)
築城者毛利輝元
城タイプ平城
備考日本100名城
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福島正則後、浅野氏代々の居城に

聚楽第で豊臣秀吉(とよとみひでよし)と謁見した毛利輝元(もうりてるもと)は、帰国直後から郡山城に代わる広島城の築城を太田川の三角州で開始します。河口の砂地の築城は島普請と称されたほどでした。
関ヶ原合戦で西軍に与した毛利輝元(もうりてるもと)は防長2か国に減封となり、替わって福島正則(ふくしままさのり)が入城します。しかし福島正則(ふくしままさのり)は、幕府に無断で広島城の修築を行い改易されます。その後に浅野長晟(あさのながあきら)が入城し、明治まで浅野氏12代の居城となりました。 

聚楽第を模したと伝わるシンプルな構造~史上最大の連結天守~

広島城の構造は、長方形の本丸とその前方に方形の小曲輪の二の丸を付けた極めてシンプルなもの で、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の聚楽第を模倣したものと伝えられています。なお、二の丸は 単なる曲輪ではなく、本丸に付く角馬出として評価されるでしょう。本丸の外側には中堀、外堀が巡り、浅野氏時代に、その塁線上には88棟もの櫓が林立していました。
典型的な輪郭式の縄張で、本丸、二の丸は石垣とし、三の丸と大手と呼ばれた外郭は櫓台と枡形を石垣とし、他は土居としていました。毛利氏時代の外郭は東、南側のみで、北、西側の外郭は福島時代の増築です。
本丸北西隅には五重五階の大天守と2基の三重小天守を廊下で連結した、史上最大の連結天守があ りました。しかし小天守は明治に解体され、大天守は国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)に原子爆弾によって灰燼に帰しました。

福島正則の改易

関ヶ原合戦の戦功により広島城に入城した福島正則(ふくしままさのり)は、領内の寺社の所領を没収するなど極めて評判が悪かったです。その福島正則(ふくしままさのり)が、1617年(元和3年)の洪水によって破損した広島城の櫓や塀の修築を幕府の許可を得ず行いました。
徳川幕府はそ の前々年に武家諸法度を公布しており、居城の修理は事前に幕府へ届け出るように規定していました。案の定、広島城修築は幕府の知るところとなり、福島正則(ふくしままさのり)は本丸の石垣、櫓門などを取り壊しましたが、幕府はその破却を「上石ばかり取除」として、福島正則(ふくしままさのり)を改易してしまいました。

アクセス

住所
広島県広島市中区基町21-1
アクセス
・JR広島駅から広島電鉄で約14分「紙谷町東」下車、北へ徒歩約15分
・JR広島駅からバスで「合同庁舎前」下車、徒歩8分

関連・参考

<関連サイト>広島城 _ 広島城は、太田川河口の三角州に、毛利輝元が築いた典型的な平城です。

<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社

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