別名 | 鶴舞城 |
地方 | 中部(東海)地方 |
所在地 | 静岡県掛川市 |
旧国名 | 遠江 |
天守 | 建てられていない |
築城時代 | 戦国時代 |
築城年 | 16世紀初頭 |
築城者 | 不明 |
城タイプ | 山城 |
備考 | 続日本100名城 |
豪華な城主の変遷 信玄、勝頼VS家康 遠江戦線の最前線
今川家家臣の福島正成(くしままさしげ)が築城し、城代となり、その後、小笠原長忠(おがさわらながただ)が城代となり、今川義元(いまがわよしもと)が城主となります。桶狭間の合戦後、徳川家康(とくがわいえやす)が侵攻し、城主が替わります。
その後、1571年、武田信玄(たけだしんげん)が攻めるも多くの死傷者を出し撤退し、1574年、武田勝頼(たけだかつより)によって落城し、城主が入れ替わります。
そして、徳川家康(とくがわいえやす)が1581年、籠城戦の末陥落させ、再び城主となり、徳川と武田の争いの前線基地としての 役割を終え、廃城します。
勝頼が信玄越えを果たした攻城戦
甲斐・武田氏と徳川家康(とくがわいえやす)の遠江をめぐる争奪戦の舞台となったのが高天神城です。
1571年(元亀2年)、武田信玄(たけだしんげん)は2万の兵で高天神城を攻めるが、城代・小笠原長忠(おがさわらながただ)はこれを防ぎきっています。
1573年(天正元年)、武田信玄(たけだしんげん)が没すると今度はその子・武田勝頼(たけだかつより)が父の落とせなかった高天神城を攻めることによって自分の力を見せつけようとしました。城主・小笠原長忠(おがさわらながただ)はすぐさま徳川家康(とくがわいえやす)に援軍を要請しますが、家康には割く兵がなく、同盟軍・織田信長(おだのぶなが)も越前に全軍を出兵しており、やはり兵を派遣することができませんでした。その結果、小笠原長忠(おがさわらながただ)は武田勝頼(たけだかつより)に投降してしまいます。
徳川の奪還後、廃城に
武田勝頼(たけだかつより)は高天神城を遠江における橋頭堡として位置付け、岡部元信(おかべもとのぶ)を城代に、横田尹松(よこたただとし)を軍監として入れ置きました。徳川家康(とくがわいえやす)は高天神城を奪回するため、1579年(天正7年)頃より小笠山砦など6つの付城を構えて包囲体制を整えました。これによって高天神城は孤立してしまい、1581年(天正9年)3月22日、城兵は討って出て高天神城は落城しました。
遠江における橋頭堡を失ったことで武田家の威信は失われ、武田勝頼(たけだかつより)は躑躅ヶ崎より新府に移りました。一方、徳川家康(とくがわいえやす)はその後の甲斐攻めに参加し、織田信長(おだのぶなが)より駿河一国を賜りました。
堅固な中世城郭
高天神城は東西2つの峰にそれぞれ城郭を構え、中央の鞍部でつながる巨大な城域を形作ってい ます。こうした形状の城郭を軍学では一城別郭と呼んでいます。
東の峰に本丸、御前曲輪、三の丸が構えられ、西の峰に西の丸、二の丸、堂の尾曲輪が構えられて いました。特に西の丸、二の丸の長大な横堀を巡らせた遮断線は圧巻です。
また、曲輪斜面の切岸は小笠礫層 をほぼ垂直に削り込んでおり、まず切岸を登ることはできません。
アクセス
住所 |
静岡県掛川市上土方嶺向 |
アクセス |
・JR掛川駅からバスで「土方」下車、徒歩約15分 |
関連・参考
<関連サイト>今、よみがえる高天神城
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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