別名 | 月山城 富田月山城 |
地方 | 中国地方 |
所在地 | 島根県安来市 |
旧国名 | 出雲 |
天守 | 建てられていない |
築城時代 | 鎌倉時代 |
築城年 | 1185年 (文治元年)頃? |
築城者 | 佐々木義清? |
城タイプ | 山城 |
備考 | 日本100名城 |
月山全域におよぶ巨城
富田城は出雲守護・佐々木氏の居城として築かれ、後に守護代・尼子氏の居城となります。尼子氏は全盛期には出雲、石見、備後をはじめ中国地方11か国を領有する戦国大名となり、その成長とともに富田城も拡張整備されてきました。1565年(永禄8年)に毛利元就(もうりもとなり)は富田城を攻めますが破ることはできませんでした。そのため毛利元就(もうりもとなり)は城を囲んで兵糧攻めを開始。城主・尼子義久(あまごよしひさ)の籠城は1年半におよびましたがついに開城し、毛利元就(もうりもとなり)の中国統一がなったのです。
慶長年間には廃城に
尼子氏退去後は毛利氏一門や吉川広家(きっかわひろいえ)らが城主となります。しかし毛利氏も関ヶ原合戦の結果、防長2か国に減封され、替わって堀尾吉晴(ほりおよしはる)が出雲に入国し、富田城を居城としました。ところが富田城が山間部に立地していることにより1607年(慶長12年)に松江築城が開始され、富田城は廃城となりました。
月山と呼ばれる山全体を城域とする巨大な山城ですが、現在残されている本丸など山頂に構えられた主要部と、月山の中腹に配された山中御殿の石垣は尼子氏時代のものではなく、堀尾氏によって改修されたものです。
晴久による新宮党謀殺
富田城の北東山麓に新宮谷と呼ばれる谷筋があります。ここには新宮党を称する尼子一門の屋敷構えられていました。
尼子氏を山陰の太守として全盛時代を創りだした尼子経久(あまごつねひさ)の次男・尼子国久(あまごくにひさ)は、精鋭2000の兵を率いてこの新宮谷に居していました。毛利元就(もうりもとなり)は策略をもって当主・尼子晴久(あまごはるひさ)に尼子国久(あまごくにひさ)謀反の疑いをかけさせ、1554年(天文23年)、ついに尼子晴久(あまごはるひさ)は尼子国久(あまごくにひさ)とその子・尼子誠久(あまござねひさ)を富田登城の道中で殺害しました。
尼子誠久(あまござねひさ)の弟・尼子敬久(あまごたかひさ)は新宮谷の館で討死、尼子誠久(あまござねひさ)の子・尼子常久(あまごつねひさ)、尼子吉久(あまごよしひさ)は自害しました。この事件を境に尼子氏の勢力は弱体化してゆくのです。
アクセス
住所 |
島根県安来市広瀬町富田2188 |
アクセス |
・JR山陰本線「安来駅」からバスで「広瀬病院前」下車、徒歩15分 |
関連・参考
<関連サイト>月山富田城跡 | 安来市観光ガイド
<参考文献>「徹底図解 日本の城」 著者/中井均 発行/新星出版社
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